同業の仲間との交流が
職人としての腕を磨く
「屋号の『菊太郎 新富』の菊太郎というのは、創業者・冨沢菊太郎の名前です。1998(平成10)年に、店舗を現在地に移転した時、初代は楽しみにしていたのですが、残念ながら新店舗の完成を見届けることなく逝去しました。その後、初代の名と業績を讃えると共に、その名と初心を忘れることのないよう、屋号を『新富』から『菊太郎 新富』と改めました」と話すのは、3代目店主・厚海正光さんだ。
初代・冨沢菊太郎さんは、県内寒河江市の農家に生まれ、そば店・割烹料理店などに奉公し、20歳の時、米沢市のそば店の店主に見込まれ婿入りし、そば店の後継者となった。菊太郎さんは努力を重ね、店を県内でも屈指のそば店に成長させた。その後、1962(昭和37)年、米沢市内に『新富』を開店。さらに店を拡張した。
厚海さんは、2代目・冨沢吉璋さんの次女・桂子さんとの結婚を期に会社勤めを辞め、以前市内で出店していた喫茶店を任された。そして、連休や年末など店の繁忙期に手伝ううちにそば店の仕事を覚え、喫茶店の閉店を期にそば店に入った。吉璋さんは支店を経営、本店の経営を厚海さんに任せた。
「義父の仕事しか知らなかった私は、支部青年会や県青年会でそば打ちの技術をはじめ、そばに関することを学びました。もともと機械製麺でしたので、山形市内の名店の方にそば打ちも教えていただきました。それまではそばの産地や品種の事も知らず、従来から納品されているものを当たり前に使っていたのです。同業の仲間が愛着をもってそばを打ち、自信をもって商売をしている姿に感銘を受け、影響されました。義父から店のことは任せてもらったので、材料も全て見直し、仲間から学んだことを活かして新しい味を作りました。ただし、つゆの香りだけは店の伝統を守っています」と、厚海さんは積極的に青年会や組合の仲間と交流、そば店店主として必要な技術と知識を身につけた。その後は山形県組合青年会会長や全麺青連副会長などを歴任、現在は山形県組合理事を務め、業界の発展に尽力しながら、全国の同業者と交流を深め、日々精進している。
『菊太郎 新富』のそばは外二の手打ちそばだ。二八よりも若干そば粉の割合が多くなるが、つながりも良く、つやも良い。新そばの季節には外一ぐらいの割合で打つ。そば粉は県内産の最上早生。あえて計量はせず、その時々の気候などにあわせて微調整する。仲間と取り組む『天保そば』や『寒ざらしそば』は、期間限定で提供している。
まったくの別世界からそば店の店主となった厚海さん。同業の仲間からの教示と切磋琢磨、努力を積み重ねて、創業者の思いとそれを引き継いだ2代目からバトンを受け継ぎ、そば専門店としての地位を確固たるものにしている。
<店舗ホームページ>
https://shin-tomi.net