そばの散歩道

麺類雑学事典

しっぽく

江戸時代、そばの種もののなかでもっとも早く登場したのが「しっぽく」である。寛延4年(1751)脱稿の『蕎麦全書』によれば、寛延ないしその直前頃の延享(1744~48年)頃に、日本橋の「近江家」というそば屋が始めている。また、同じ頃、人形町の「万屋」というそば屋もしっぽくを出しているが、これはあまり流行らなかったようである。

しっぽくとは「卓袱」。元禄(1688~1704年)頃から長崎で盛んだった和風中華料理の卓袱料理のことである。この卓袱料理のなかに、大盤に盛った線麺(そうめん、またはうどん)の上にいろいろな具をのせたものがあった。これを江戸のそば屋が真似して、そばを台に売り出したのが「しっぽくそば」ということになっている。

ただ、幕末頃ならともかくこの時代に、開港場という特殊な地域で流行った料理を遠く離れた江戸のそば屋が直接取り入れたというのは、少々無理があるといえなくもない。実際、しっぽく料理そのものは享保(1716~36年)頃に京都に移植され、それが大坂をはじめとする畿内に広まったとされている。そして、京・大坂はいうまでもなく、うどん文化圏だ。とすれば、まず京坂のうどん屋がいち早くしっぽくうどんを売り出し、それが江戸に伝わってそばの種ものになったと考えるの が自然のようである。

『蕎麦全書』はしっぽくという品書きだけを紹介していて、具の内容については何も触れていないが、安永4年(1775)の『そば手引草』には、マツタケ、シイタケ、ヤマイモ、クワイ、麩、セリを具とするとある。大和郡山藩主だった柳沢信鴻が隠居後に記した『宴遊日記』では、具は鴨、セリ、クワイ、ナス、ゴボウとなっているが、鴨が入るのは特権階級ゆえの贅沢だったのかもしれない。そもそもヒントとなった卓袱の麺料理は、現在の中国料理の什錦湯麺(五目汁そば)のようなものだったのだろうから、何種類もの材料を使った具をのせればいいわけで、とくにどの材料と決まっていなかったのではないか。

しかし、天保から嘉永(1830~54年)頃の風俗を記した『守貞謾稿』では、具は玉子焼き、かまぼこ、シイタケ、クワイなどとなっており、具の内容はだいたいこのへんに落ち着いていたようである。

ただし、これらの具は京・大坂のうどん屋が出しているしっぽく(うどん)の解説であり、江戸のそば屋のしっぽくについては具体的な説明はなく、「京坂と同じ」としているだけである。しかし、全編が正確な観察と記述に貫かれている同書の姿勢からすれば、しっぽくそばの具もほぼ京坂と同じだったと見ていいのではないだろうか。値段は京坂ともに24文である。

なお、しっぽくは江戸時代後期から、幕末にかけての夜売りそば(風鈴そば、後に総称して夜鷹そば)でも売られているが、どんな具がのせられていたのかははっきりしない。