麺類雑学事典
そば屋の看板
江戸時代の初期、麺類屋では「招牌」と呼ばれた看板が広く使われていた。櫛型や長方形、あるいは奉納絵馬の形に切った板の下に、細長い紙を何本も吊るしたものだが、天保から嘉永(1830~54年)頃の風俗誌である『守貞謾稿』は、このような招牌は「今ハ三都トモ不用之」としている。三都とは江戸、京都、大坂のことで、その他の地方や東海道の諸駅では、「今モ此形ヲ用ヒ、二八ト大書シ、左右ニそばうどんト細書スル等多シ」とある(江戸時代には看板一般を招牌と呼んでいたようだが、ここでは便宜上、この形のものに限って「招牌」とし、その他の形のものを看板と表記する)。
そば屋の看板には、軒下に吊るす「軒看板」や庇の上に掲げる「屋根看板」、店頭に置く「置き看板」、それに「行灯」などがあるが、招牌以外の看板で古いのは、おそらく、延宝・天和(1673~84年)の絵に描かれている四角い箱型のものだろう。京都のけんどん屋の看板で、揚げ縁や座敷の端に置かれ、「けんどんめし そば切」と書かれている。元禄7年(1694年)板の咄本『遊小僧』の挿画として描かれている大坂のけんどん屋の看板も同様の箱型で、やはり揚げ縁に置かれている。
以上の二例は、描写が簡略化されているのかどうか、いずれも単純な直方体の形である。しかし、享保(1716~36年)頃になると、置き看板らしい形のものが出てくる。享保15年板『絵本御伽品鏡』にある大坂『和泉屋(砂場)』と推定されるそば屋の絵には、裾広がりの四角形の台の上に行灯を仕掛けた形の看板が描かれている。この時点ではまだ、単純な作りだが、後年、この行灯式の置き看板はより装飾的な形(行灯に屋根をつけたもので、吉原の妓楼が軒先に立てた「誰哉行灯」をまねた)に発展していくことになる。
ただし、同16年の『江戸名所百人一首』で、江戸・雑司谷鬼子母神門前のそば屋が、茶店風の軒先に置いているのは、直方体で何の変哲もない箱型看板である。また、正徳から延享(1711~48年)頃の作と推定とされる絵には京都の麺類屋が描かれているが、こちらは揚げ縁に置かれた箱型(おそらく行灯形式)と、軒下に突き出した棒に吊り下げた招牌の併用である。箱型は丸の中に「うとん そは切」と書かれていて、デザイン的には凝っている。しかし、この時代のそば屋(麺類屋)の看板は、江戸、京都よりも大坂のほうが進歩的だったのかもしれない。
さて、店の戸口横の出格子に掲げる一枚板の看板を「まねき」という。「生蕎麦」の文字や品書きなどを書いたもので、江戸でそば屋が隆盛を極める18世紀に入ると、この手の看板の絵がよく出てくるようになる。飲食店が終業のことを「看板にする」というのは、昔のそば屋が終業時にこの看板(または、その脇に掛けた小さな板看板)をしまい込んだことに由来するといわれる。