麺類雑学事典
麺類屋の看板
江戸末期の風俗誌『守貞謾稿』は、看板について次のように書いている。
招牌、俗二カンバント云、看板也。
然レバ、板ヲ用フヲ本トスル也。今世モ、三都トモ板ヲ用フ者多ク、板ハ槻ヲ専トシ、墨書或ハ文字ヲ彫テ、墨漆、或ハ金箔押モアリ。又、塗看ニハ杉檜板ヲ用フ。
招牌は「ショウハイ」と読む。明治以降もしばらくは、看板を表す言葉として使われたが、江戸時代はもっぱら招牌のほうが用いられていたようだ。
同書は、招牌は看板なのだから板を用いるとしている。その伝でいくと、基本は木の板に店名や売り物などを書いて庇の上に掲げたり軒下に吊るすのが本筋となるが、当時からこの形に決まっていたわけではなく、軒先の路上に置く箱看板や行灯型のものなど、さまざまな形の看板が紹介されている。
そば屋、うどん屋など麺類店の看板もいくつかの種類があった。そのうち古いのは、長方形や櫛形などの形に切った板の下に細長い紙を何本も吊るしたものだ。柄のない刷毛のような形である。
この招牌の史料で最も古いのは江戸時代初期(17世紀半ば)頃の絵で、ひとつは明暦の大火(明暦3年・1657)以前の江戸城下を描いたとされる『江戸図屏風』。もうひとつは、俗に浮世絵の始祖ともいわれる岩佐又兵衛画『山中常盤絵巻』だ。ただ、『江戸図屏風』の絵は、竹竿の先にこの招牌をつけて軒高く掲げているものの、肝心の店内は簾に遮られていて何を商っているのかはわからない。招牌の形から、麺類店(おそらくうどん屋)と推定されているわけだ。
一方、『山中常盤絵巻』のほうは、東海道の草津の宿場を描いたものだが、招牌を吊り下げた軒下の台の上で麺(おそらくうどん)を打っているさまがはっきりと描かれている。作者の岩佐又兵衛は慶安3年(1650)に73歳で没しているから、それ以前の作ということになる。
次いで古い史料は寛文(1661~73年)頃の京の風俗を描いたとされる『四條河原図巻』で、こちらは麺(おそらくうどん)を打つ姿だけでなく、それを切って茹で釜で茹でる様子や、店頭に並べられた麺まで、きっちりと描き込まれている。『山中常盤絵巻』もこの『四條河原図巻』も、招牌自体には何も書かれていないけれども、こうした店内の描写によって、この招牌が麺類屋のものであることが確定されたわけである。
柳亭種彦の随筆『用捨箱』(天保12年・1841刊)は、この形の招牌の例として、天和2年(1682)刊『好色一代男』や、元禄3年(1690)刊『人倫訓蒙図彙』などの挿図を紹介している。前者は東海道の芋川宿で売っていた名物平うどん(ひもかわ)屋の図で、招牌には「いも川 うむどん」とある。後者は麺類屋も兼業していた旅籠屋の図で「うどん そばきり」とあり、看板にそばがはじめて出てくる史料でもある。