そばの散歩道

麺類雑学事典

そば屋の箸

蒸籠やざる、丼、膳など、そば屋で使う食器は基本的に、そば屋文化が一応の完成を見た江戸時代後期からあまり変わっていない。まさに伝統食のわけだが、案外と見落とされがちなのが箸である。

現在、そば屋で客に供する箸はほとんどが割箸といっていいだろう。しかし、飲食店で割箸が普及するようになるのは明治後期以降のことであり、そば屋の場合はもっと遅れて昭和初期以降のことといわれている。

ところで、いうまでもなく日本は箸食文化の国であり、古来、材質、形状ともにさまざまな箸がつくられている。しかし、割箸はそれほど古いものではなく、『守貞謾稿』は文政年間(1818~30)以降のこととしている。一説によれば、発明したのは鰻屋で、竹の割箸である。

ご飯の丼ものはそば屋でも縁が深いが、現在の丼もののうち、最も早く登場したとされるのが鰻丼だ。文化年間(1804~18)、江戸日本橋の芝居小屋の主人・大久保今助が、蒲焼きと飯を出前させると冷めてしまうため、丼鉢に飯と蒲焼きを重ね入れ、蓋をさせて取り寄せたことに始まるという。鰻丼はたちまち人気商品となったそうだが、その過程で割箸も発明されたのだという。鰻屋では竹の串を使うため、竹の割裂性に着目したのではないかというわけだ。

一方、江戸時代のそば屋が使っていたのは丸箸。洗って何度も使う箸である。割箸が画期的だったのは使い捨ての銘々箸だったことで、竹製の丸箸は一般に普及していたそうだ。ただし、『和漢三才図会』(正徳2年・1712)には竹箸の多くは漆の塗り箸として流通しているとあるが、そば屋の箸が塗り箸だったのかどうか、また竹製だったのか、それとも杉などの木材を加工したものだったのかどうかについては定かではない。確かなのは、何度も使い回す丸箸だったということだけのようである。

一茶に、

陽炎やそば屋が前の箸の山

という句(文政6年)がある。そば屋の店先に箸の山という光景だが、これより少し前の文化6年刊『江戸職人歌合』には、天秤棒にけんどん箱を下げて出前をするそば屋の担ぎ(出前持ち)が描かれている。そして、その担ぎが通り過ぎる横にあるそば屋の箱看板の上には、ざるに入れられた箸の山が置かれている。一茶が詠んだのがこの看板の上に載せられていた箸の山なのか、それともただ軒下にでも置かれていたものか、そのへんは判然としないのだけれど。

さて、飲食店に割箸が普及し始めた大正から昭和初期のころ、杉の割箸はまだまだ高価なものだった。そこで東京のそば屋では、特別な種ものやご飯ものなど値段の張る注文の時だけ割箸を出し、ふだんは丸箸を洗って使い回すというのがふつうだったと聞く。店仕舞いの後、銅壷の湯で洗い、翌日、日当たりのよい店先などで乾燥させたものだそうである。