麺類雑学事典
田舎そば
一般に「田舎そば」といえば、さらしなそばの対極にあるそばと位置づけられる。白く細い繊細な風味のさらしなそばに対して、太めで黒っぽくそばらしい味わいの濃いそばが田舎そば、そして、両者の中間にあるのが、いわゆる並そばということになる。要するに、そばの色と太さによる大ざっぱな区別、定義である。
また、田舎そばは「山家そば」とも呼ばれるが、これは江戸風そばに対する地方のそばという意味合いである。この場合の地方とは農山村を指すが、とりわけ山里のイメージが濃い。それはそのまま江戸風そば=洗練されたそばとは反対の、無骨なそばという言い方よりもさらに、都市と地方(田舎)の対照を際立たせた言葉ともいえよう。しかし、この無骨なそばも、見方によっては野趣のあるそばになる。
ところで、田舎そばという言葉がいつ頃からあるのかとなると、はっきりしたことはわかっていないようである。たとえば、『守貞謾稿』など、江戸時代末期のそばの品書きについて詳述している文献にも出てこない。だからといって江戸時代には田舎そばという品書きがなかったとは断言できないのはもちろんだが、江戸市中である程度の人気を得ていた品書きだったとしたら、記録されていないというのは不自然だろう。
ただ、『江戸名所図会』(天保7年・1836)や『武江年表』(嘉永元年・1848)などで知られる斎藤月岑の日記『斎藤月岑日記』の明治四年の条に「回向院田舎そば」という記述が出てくる。ただし、このそば屋の初出は文久2年(1862)の条で、「回向院前太そば食べる」とある。この「田舎そば」は、嘉永6年(1853)版『江戸細撰記』に「両国 田舎」と掲載されている店のことだ。町名主でもあった月岑は大変なそば好きで、日記中には食べ歩いたそば屋の名が几帳面に記されているが、この記述によって、幕末頃の江戸には「田舎そば」というそば屋があったこと、そして、その売り物のそばの色はともかく、太いそばだったことは確かである。
一方、しばしば田舎そばと同義語として使われる言葉に「馬方そば」というのがあるが、こちらは江戸時代末期頃の江戸のそば屋の俗称が語源とされる。四谷御門外にあった「大田屋」で、挽きぐるみの黒っぽいそばだったと伝えられる。ただし、太さは不明。
大田屋の創業は寛永18年(1641)。四谷は甲州と青梅の二街道と府内を結ぶ出入り口だったため、近在から荷物を運ぶ荷駄馬が頻繁に通ったが、もっぱらその馬子たちのひいきを得ていたことから「馬方そば」と異名するようになったと『四谷町方書上』にある。この書上は町名主が文政10年(1827)にお上に答申した文書。「二八」で一膳一六文だったが、量がほかのそば屋の三倍ほどもあったため繁盛したという。