麺類雑学事典
乾麺
麺類には生麺と乾麺とがあるが、一般に、生麺は手づくりの麺、乾麺は工業製品の麺というイメージがあるようだ。そのため、乾麺は比較的新しい麺と思われがちだが、実はわが国の麺類の歴史は、乾麺から始まった可能性が高い。
いまのところ、わが国の最古の麺は奈良時代から平安時代にかけて食べられていた索餅(和名・麦縄)ということになっている。索餅とは、もともとは中国で作られていた麺で、それが遅くとも奈良時代初期までにはわが国にもたらされていたと考えられている。
ただし、奈良時代の文献に書かれているのは索餅ないしは麦縄という名称だけであり、材料も作り方もいっさい書かれていないし、もちろんどんな麺だったかという記述は残されてはいない。その意味での最も古い記録は、平安時代中期に成立した『延喜式』(延長5年・927完成)である。『延喜式』は当時の律令の施工細則であり、宮中や貴族の年中行事や儀式、税などにかかわる食品について、種類や分量の詳細な規定が記されている。
それによると、材料は小麦と粉米(精米した時に砕けた米)と塩だが、注目すべきは製造するための道具として、臼や杵、篩などとともに、竹の棒と「乾索餅篭」と呼ばれる籠が記述されている点だ。要するに、索餅は麺に加工してから竹の棒に掛けて乾燥させ、籠に入れて保存したものと考えられるのである。もちろん、具体的な製法の記述がない以上、これはあくまで推測でしかないわけだが、もしそうだとすれば、わが国の麺は乾麺から出発したことになる。
奈良時代には、平安京の市で「乾麦」という食品が売られていたという記録がある。これもおそらく索餅のことだといわれているが、「乾」という字を使っているということは、乾麺だった可能性が高いということにもなるだろう。また、12世紀前半に成立した『今昔物語集』にはこんな話が載っている。「旧麦は薬になる」というからと、作った麦縄を大きな折櫃の中に入れておいたら、翌年、麦縄が小さなヘビになっていた。これは生麺では無理な話である。
南北朝時代になると、索餅とともに索麺、素麺という表記が現れる。索麺、素麺とも製法についての記述はみつかっていないが、江戸時代以降の手延べそうめんの製法と原理的には変わらないというのが定説だ。ということは、これらもまた乾麺ということになる。南北朝時代にはうどんと思われる麺の記録が出てくるし、室町時代からは切って作る麺の記述も増える。切り麺が生麺だったのか乾麺だったのかも不明だが、奈良朝以来の伝統である手延べの乾麺も廃れることなく作り続けられるのである。
室町時代末期まで、そうめん作りの先進地は京都であり、そうめん師という職業も生まれていた。そうめんの産地がぐんと増えるのは、江戸時代に入ってからのことである。