そばの散歩道

麺類雑学事典

天ぷらそば

そばの種ものの代表格といえば、やはり天ぷらそばだろう。江戸時代末期(天保8年・1837~嘉永6年・1853)の風俗の記録『守貞謾稿』に出ている種ものは、天ぷらのほか、あられ、花巻、しつぽく、玉子とじ、鴨南蛮、親子南蛮で、そのほか、かしわ南蛮もあった。これらのうち、玉子とじ、親子南蛮、かしわ南蛮などは現在もポピュラーな種ものだが、天ぷらそばをしのぐ人気とまではいいがたい。

天ぷらそばがいつ頃からあったのかは定かでないが、文政10年(1827)の川柳で次のように詠まれている。

沢蔵主天麩羅蕎麦が御意に入り

このことから、少なくとも文政10年以前からそば屋で売られていたことがわかるわけだが、その発祥まではさかのぼれない。

ところで、天ぷらそばが考案されたということは、その当時すでに、天ぷらが商品として売られて人気を得ていたと考えるのが妥当だろう。しかし、天ぷらの事情もまたはっきりしないのだ。天ぷらの起源については、山東京伝命名説など諸説が知られているが、南蛮料理に由来するのは確かとされる。

いずれにしろ、江戸の天ぷらはまず、屋台料理として人気を博したらしく、辻売りの始まりは安永(1772~81年)の初め頃から遅くも天明(1781~89年)といわれる。文化2年(1805)の筆とされる『近世職人尽絵詞』には天ぷら屋台店の様子が活写されているが、それを見ると、当時の屋台天ぷらは種の魚介を串に刺して揚げたもので、屋台中央に置かれた大丼の中の天つゆに、客がめいめいにつけて食べたようだ。

やや時代は下がるが、『守貞謾稿』によれば、屋台天ぷらの種は、アナゴ、芝エビ、コハダ、貝の柱(バカガイの柱)、スルメ(スルメイカなのか乾燥品のスルメなのかは不明)。いずれも、ゆるく溶いたうどん粉を衣とするとある。幕末近くになると、これらのほかにギンポウ、ハゼが種に加わっている。要するに、江戸前の魚介である。

ちなみに、江戸時代の京・大阪にはこのような天ぷらはなく、魚のすり身でつくった半平(「はんぺん」のこと)をゴマ油で揚げたものを天ぷらと呼び、江戸風の天ぷらは「つけあげ」と呼んで区別していた。

さて、『守貞謾稿』が紹介している天ぷらそばは「芝海老の油あげ三四を加ふ」というもの。串揚げとは書かれていない。芝エビ3、4尾を使うのであればかき揚げともとれるが、それについての記述もないから、想像するしかない。また、天種はいろいろとあったのに、なぜそば屋は芝エビしか使わなかったのか。これも疑問である。屋台で売る天ぷらは種によらず一串四文という廉価だったというから、材料の値段のせいということではないだろう。明治以降も東京のそば屋では、主として芝エビが使われたが、東京湾の芝エビが激減した昭和以降、クルマエビが主流になった。