そばの散歩道

麺類雑学事典

江戸時代のうどん屋の品書き

関東はそば、関西はうどんということについて、江戸時代末期の風俗考証書『守貞謾稿』は次のように書いている。

京坂は、温飩を好む人多く、又、売る家も専之とし、温飩屋と云也。然も、温どんやにて、そばも兼ね売る也。江戸は、蕎麦を好む人多く、商人も専とし、温飩は兼て沽る也。故に、蕎麦屋と云。

同書の著者、喜田川守貞は江戸の商人だったが、生まれは大坂で、江戸に出たのは30歳の時である。そのため、京・大阪の食事情にも詳しく、上方のうどん屋についても詳しく記述している。守貞の記録した当時のうどん屋の品書き(店内の壁に張り出した品書き)は次の通りである。

うどん 代十六文
そば 代十六文
しつぽく 代二十四文
あんぺい 代二十四文
けいらん 代三十二文
小田巻 代三十六文

それぞれの品書きには説明が付されている。それによると、しつぽく(しっぽく)はうどんの上に玉子焼き、かまぼこ、しいたけ、くわいの類をのせたもの。あんぺい(あん平)は、しっぽくに葛醤油をかけたもの。けいらん(鶏卵)は、うどんの玉子とじ。小田巻(をだまき)は、しっぽくと同じ種を加えて、溶き卵を入れて蒸したもの、である。

これらのうち、江戸のそば屋の品書きと共通するのはしっぽくとけいらん。台がうどん、そばと違うだけで、種の内容は同じとしている。江戸のそば屋にある天ぷら、あられ、花まきが上方にないのは、これらの種ものの材料が江戸前の特産品(芝えび、バカ貝の貝柱、浅草海苔)だったせいだろう。

また、あんぺいは、要するにあんかけうどんであり、あんかけうどんという品書きは江戸のそば屋にもあった。ただ、江戸のそば屋では、値段はそばと同じ十六文である。ということは、江戸では種をのせず、つゆだけあんかけにしていたのだろうか。大坂の風俗を記した『街廼噂』(天保60年・1835)では、「江戸のあんかけうどんを、こちら(大坂)ではのつぺい」というと書いている。のつぺいは「のっぺい」で、現在も残っている名称だ。

なお、現在、関西でいう「けいらん」は一般に、つゆにとろみをつけたあんかけ風、関東でいう「かき玉」のことだが、当時はただの玉子とじだったようである。

小田巻は小田巻蒸しの略称で、江戸時代中期に長崎で始まった茶碗蒸しから派生した種ものといわれる。紡いだ麻糸を丸く輪に巻いたものを苧環というが、丼の底に敷くうどんをこの苧環に見立てた命名といわれる。

江戸時代の大坂のうどんといえばもうひとつ、鍋焼きうどんがあった。ただし、江戸時代といっても幕末の元治元年(1864)頃に流行った夜鳴きうどんの品書きである。