麺類雑学事典
江戸時代の屋台
江戸でのそばの普及には、店を構えたそば屋だけでなく、夜そば売りが大きく貢献していた。夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになったのは、市中にそば屋が目立って増え始める18世紀半ば以降よりも、少なくとも20年ほど遡る。
夜そば売りが重宝されたのは、ほかの飲食店が閉まっている夜中に営業していた(夜9時から明け方まで)ということもあるが、もうひとつ、一定の場所に店を構えるのではなく、自由に場所を移動できる形態だったということが挙げられよう。つまり、屋台での商売である。
ただし、屋台といっても江戸時代には、大八車のように車輪のついた屋台はまだなかった。夜そば売りが使っていたのは、一人で担いで運ぶことができる「担い屋台」である。
ちなみに、一人では担げないけれども、分解すれば移動できる仕組みになっている屋台のことは「屋台見世」といって区別した。
時代が下るが、広重の天保(1830~44)頃の作とされる『東都名所 高輪』(廿六夜待遊興之図)には、高輪の海岸近くに、すし、天ぷら、団子などさまざまな屋台が並んでいるさまが描かれている。そば屋の屋台も店開きしているが、屋台の形が他の店とは明らかに違う。他の屋台はみな作りのしっかりとした屋台見世だが、そば屋だけは担い屋台である。ふだんは町中を売り歩いている夜そば売りが、二十六夜の月見客目当てに駆けつけたのだろう。
さて、夜そば売りが使った担い屋台には少なくとも三種類があった。代表的なのは、担ぎ棒の前後に人の背丈ほどの縦長の木製の荷箱が固定され、簡単な細長い屋根が架け渡してあるタイプだ。浮世絵などでよく見かける絵では、前後の荷箱の上まで覆った屋根に市松模様がつけられていることが多い。
この屋根の下に風鈴を一つか二つ吊るしているのが、18世紀後半に夜鷹そばに対抗して現れた「風鈴そば」だが、その後、夜鷹そばも真似て風鈴を下げるようになる。19世紀の文化文政時代(1804~30)頃には両者の区別はつかなくなり、風鈴そばという名称も消えていくが、屋根に吊るした風鈴だけはそのまま使われ、夜そば売りのトレードマークのようになった。
二つ目のタイプは、背丈の半分ほどの高さの縦長の荷箱二つを担ぎ棒の前後に振り分けて担ぐもので、夜そば売りのほか、甘酒売りや漬物売り、納豆売りなども同じスタイルだった。三つ目のタイプは、荷箱の代わりに御膳籠と呼ばれた編み籠を担ぐ。
夜そば売りが始まった頃は後者二つの簡略屋台だったと推定されるが、屋根付の屋台が一般化した後も、屋根なし屋台の振売りも活躍していたようである。
いずれにしろ、荷箱には水や火鉢(七輪)、食器なども入っている。これを担いで売り歩くのだから、かなりの重労働であった。