麺類雑学事典
きつねうどん
きつねうどんといえば大阪うどんの代表的な品書きだが、江戸時代の文献には出ていない。最初に売り出したのは大阪船場の老舗うどん屋で、明治半ば頃のことだったという説がある。
意外なことに、文献上は油揚げを種に使う品書きは江戸のほうが古く、式亭三馬が江戸・深川の遊里を描いた洒落本『船頭深話』(文化3年・1806)が初出。ただし、さすがに江戸の話だけあって、ネギと油揚げをあしらったそばである。また、江戸落語の中興の祖・三笑亭可楽作『身振噺姿八景』(文化11年)には、夜鷹が夜そば売りに「信田」を注文するくだりが登場する。
前者はネギを使うことから「なんばんの仕出し」としているだけだから、江戸発祥の種ものといえないこともない。しかし、「信田」の名称はやはり、葛の葉狐の伝説で知られる信太の森(大阪・和泉市)にかけて生まれたものだろう。葛の葉伝説とは、平安中期の陰陽師・安部清明の母が実は信太の森に住む女狐で、正体を見破られて姿を消したという伝説である。そのため、もともとは大阪にあった油揚げを使う種ものが江戸に伝わったとする説もあるようだ。
一方、江戸では天保年間(1830~44年)末頃から稲荷ずしの行商が流行している。『守貞謾稿』によれば、油揚げの一方を切って袋状にし、刻んだカンピョウなどを混ぜた飯を詰めたもので、行灯に鳥居を描いて「稲荷鮨」または「篠田鮨」と称した。しかも、このすしは名古屋ではもっと古くからあり、江戸でも店売りでは天保以前からあったという。天保以前の時代は文政時代をはさんで文化である。油揚げを使う「信田」そばとこのすしとに、何か関係でもあったのだろうか。時代が重なるだけに興味をそそられるところだが、残念ながら消息は不明である。
ところで、「きつね」と油揚げの因縁は稲荷信仰に由来する。物の本によれば、稲荷信仰は中世に、狐を田の神の使いとする農民の伝統的な信仰と結びついて普及したが、江戸時代には代表的な現世利益神となり、江戸市中には、赤い社殿に「正一位稲荷大明神」の幟を立てた稲荷社が乱立する。とりわけ、小姓から身をおこした田沼意次が老中に出世した(安永年間・1772~81年)のは居宅に稲荷を祀っていた霊験だと評判になり、人気に拍車をかけたそうだ。初午の日に狐の好物の油揚げを稲荷に供える風習が広まったのも、この頃からのことのようである。とすれば、これが後の稲荷鮨(篠田鮨)や信田そばにつながっていったとも考えられる。
なお、東京ではうどん台そば台のいずれも「きつね」と呼ぶが、大阪ではそば台の場合は「たぬき」と呼んできつねうどんと区別する。また、大阪の地方で「きつね」といわず「けつねうどん」と呼ぶ風があったのは、中世に稲荷神の別名ミケツガミを「三狐」と書いたことに由来するという説もある。