麺類雑学事典
そばと海苔
海苔はそば屋に欠かせない食材のひとつである。 海苔かけをざるそばと称している場合はもちろんのこと、 温かい種ものとしては花巻や月見、玉子とじがある。 また、焼き海苔はそば屋の酒肴を代表する一品だし、 そばずしなどのそば料理でも海苔が不可欠だ。
もりそばにもみ海苔をかけて「ざるそば」として売り出したのは明治以降のことで、 高級品ということで蒸籠ももりそばとは違うものを使った。 また、つゆも味醂を使う御膳がえしを加えたざる汁を用いるのが決まりだったという。 江戸時代のざるそばは、蒸籠や皿ではなく竹笊に盛って出すことから起こった呼び名で、 享保20年(1735)刊『続江戸砂子』に紹介されている深川洲崎のそば屋「伊勢屋」が元祖とされている。
一方、花巻の歴史は意外と古く、 安永4年(1775)刊と推定される『そば手引草』に出ているのが、いまのところの初出。 「浅草海苔を焼きてかけしむるなり。誠に温にして、又甘味いふ斗(ばか)りなし」とある。 幕末近くの風俗考証書『守貞謾稿』は「浅草海苔をあぶりて揉み加ふ」としている。
「花巻」という名称の由来は、そばの上に散らした海苔を磯の花にたとえたという説があるが、 『そば手引草』は「俗、花まきと称するなり」と記すだけで、由来については述べていない。
しかし、江戸時代後期には風情のある、 あるいは粋な種ものとして人気があったようで、 文政8年(1825)版『今様職人尽歌合』下では、
夜ざくらをみにくる人に売らんとて花まき蕎麦のにほふゆふぐれ
という歌が詠まれている。 浅草海苔の香りを大事にした種ものだったことが偲ばれる歌である。 また、『守貞謾稿』によると、当時の花巻の値段は二四文(もりそばは一六文)。 安政(1854~60)頃の川柳、
花巻さんは二十四でおつすわな
という句は、遊女の源氏名(花巻)と年齢(24歳)とに「花巻」の代二四文をかけて詠んだものという。
ところで、海苔の食用の起源は非常に古く、古代にまで遡るといわれるが、 現在のような干し海苔の形になったのは江戸時代の初め、17世紀の初頭頃のこととされる。 現在の東京・大森で、紙漉きの技術を応用してつくられたのが始まり、と伝えられる。 当時はまだ浅草あたりは海で、隅田川は浅草川と呼ばれていた。 その河口付近で自然に生えていたノリを利用したことから、 浅草海苔という名称が生まれたという。 現在、海産干し海苔の大半はアマノリからつくられているが、 アサクサノリの名は、その代表的な品種名にもなっている。
ちなみに、海苔で巻く巻きずしが登場するのもまた安永頃のことで、 5年刊の『新撰献立部類集』が初出。 この時代、浅草海苔の需要に何か大きな変化でもあったのだろうか。