そばの散歩道

麺類雑学事典

そば屋と酒

そばブームとともに、そば屋で楽しむ酒が何かと話題になるようになっている。しかし、そば屋酒という言葉があるくらいで、昔からそば屋と酒は縁が深いとされる。

さらに、そば屋ではたんに「酒」といわず「御酒(ごしゅ)」とか「上酒(じょうしゅ)」と呼ぶ伝統があった。これには、「さけ」という音があまりきれいではないからとか、「避け」や「裂け」に通じて縁起が悪いため、などという説があるが、真偽のほどは不明である。

ちなみに、御酒という言葉はたんなる酒の尊敬語ではなく、酒を飲む人 (あるいは酒をくれた人) を立てるためにていねいに表現するという意味合いもあるそうだ。もともと古代の酒は神に供えるもので、そこから神酒(みき、御酒とも書く)という言葉も生まれている。一方、上酒とは文字通り、上等の酒とかよい酒という意味である。

いずれにしろ、ただ酒といわず御や上をつけたということは、単純にていねいな言葉遣いをしたというのではなく、やはり吟味した酒という意味を込めていたのだと想像される。そばに冠した「御膳」などという言葉とも通じるのではないか。

江戸時代末期の風俗を伝える貴重な文献として知られる『守貞謾稿』には、当時のそば屋の品書きが記されている。

それによると、御膳大蒸籠四八文、そば一六文、あんかけうどん一六文、あられ二四文、天ぷら三二文、花まき二四文、しつぼく二四文、玉子とじ三二文、そして上酒一合が四〇文である。また、鴨南蛮、親子南蛮、小田巻はいずれも三六文としている。

つまり、並そばはもちろんのこと、種ものよりも酒一合の値段のほうが高かったわけだ。このことからも、当時の「上酒」がかなり上等な酒だったことがわかる。

江戸時代、江戸は酒の一大消費地であり、本場の関西から大量に送られていた。これを下り酒という。江戸では下り酒と関東産の酒(地廻り)の双方が消費されていたが、圧倒的に評価が高く人気があったのは下り酒で、中期以降はもっばら樽廻船で運ばれる灘の酒が高級品とされていた。『守貞謾稿』も灘の酒が最上としている。

したがって、江戸時代後期のそば屋の上酒とは、灘の酒だった可能性が高い。現在も東京の老舗そば屋では灘の酒を置いているところが少なくないが、これは当時からの伝統とも考えられる。

では、江戸のそば屋はいつ頃から酒を売るようになったのか。はっきりした時期はわかっていないが、元禄3年(1690)刊の噺本『鹿子ばなし』 に出てくる浅草のそば屋が早いほうだろう。ただし夜そば売りのような屋台のそば屋では、酒は売ってはいけないことになっていたという。なお、文政(1818~1830年)の頃には、そば屋を兼業する酒屋も登場していた。