麺類雑学事典
さらしなそば
かつては、ごく限られた店でしか出さなかったさらしなそばだが、最近は品書きに載せるそば屋が増えてきている。マスコミでもよく紹介されているせいか、その知名度はぐんと上がっているようだ。
真っ白い色もさることながら、ふつうのそばともそうめんとも違う舌触りのよさは、さらしなそばならではの味わいといえよう。
さて、「さらしなそば」という名称の文献上の初出は、江戸時代の名著『蕎麦全書』(寛延4年・1751脱稿)である。ただし、同書に出てくる「さらしな」はそばの名称ではなく、そば屋の名目だ。名目とは要するに、他店のそばとの違いを際立たせるためのキャッチフレーズであり、いまでも「信州そば」などという名目が残っている。
同書に挙げられているのは、馬喰(横山)町甲州屋(さらしなそば)と浅草並木町斧屋(更級そば)の二軒。「さらしな」が当時の玄ソバの集散地だった信州更級群を指しているのは明らかだが、残念ながら、二軒とも開業時期やそば自体については触れていないため、どんなそばだったのかはわからない。
しかし、同書では「さらしな」のほか、「信濃」とか「木曽」、「戸隠」など信州の地名を名目にしているそば屋も出てくる。先の「さらしなそば」「更級そば」ともこれと同じで、信州更級の名を冠して、そばの品質のよさを訴求したと考えられるわけだ。
では、「さらしな」という名称が、そばの色の白さを表すようになったのはいつ頃からのことなのか。実はこれも不明である。
白いそばについては同書も触れているが、残念ながら名称は 「さらしな」 ではない。和泉町(現・日本橋人形町)の楠屋とい
うそば屋が、黒塗りの大平椀に盛って「雪巻蕎麦」という名目で出していたそばがそれで、「雪巻とは其色の白きを云にや」と
説明している。ただ、以前はかなりもてはやされたが最近は評判を聞かないとある。また、寛延3年の雑俳に、
白々と粉が花に似る御膳蕎麦
という句があり、宝暦2年(1752)にも、
しろい事・粉が花に似る御膳蕎麦
という句があることから、当時すでに、色の白いそば粉で打つそばがあったことは確かといえる。しかし、当時「さらしな」が色の白いそばを表していたのなら、『蕎麦全書』 がそのことを書き漏らすはずがないだろう。
いうまでもなく、色の白いそば粉を取るには、高度な製粉技術が要求される。ざらにはないそばであり、高級品だったのだろ
う。蜀山人(大田南畝)も文化6年(1809)の随筆『玉川砂利』で、白いそばをごちそうになつて「はじめて蕎麦の妙をしれり」 と記している。その白さの形容は、「素麺の滝のいと長々と、李白か髪の三千丈も、これには過ぎしとぞ思ふ」というものであった。