麺類雑学事典
湯桶
そば湯を入れる湯桶は、そば屋になくてはならない道具のひとつである。塗り物(本物かどうかは別にして)と陶器(土瓶)に大別されるが、陶器が普及するようになったのは大正から昭和初期にかけての頃のことで、本来、 湯桶といえば塗り物だったという。つまり、 土瓶は曲げ物の代用品だったわけだ。外側は朱色か黒色だが、内側は朱塗りが一般的である。
塗り物の湯桶には、筒形の丸湯桶と角形の角湯桶とがある。好みにもよるだろうが、 色合いも温かく映える塗り物の湯桶から注いで飲むそば湯の味は格別、という人も少なくない。
そばを食べた後にそば湯を飲む習慣が江戸で広まり始めたのは、寛延(1748~ 51年)頃の江戸時代中期以降とされるが、 そば屋がそば湯入れとして湯桶を用い始めた年代ははっきりしていない。そば湯を飲むことについては書かれていても、そば湯 をどんな容器に入れて出したのかについて記した史料はないようである。
幕末頃の風俗の記録である『守貞謾稿』を見ても、そば屋のもりそば一式の道具と して蒸籠、猪口、だし汁入れ、箸、薬味皿、 盆と図入りで説明しているものの、どうしたことか湯桶とそば湯についてはまったく触れられていない。道具類に関して、かなり細かく描写している同書がなぜ湯桶を取り上げなかったのか。ちょっと解せないところではある。
湯桶はもともと上流階級の婦人が化粧用の湯次(湯注)として用いたもので、江戸時代には酒器にも使われたという。また、 茶懐石では、最後に一口残しておいた飯椀のご飯を香の物で湯漬けにするが、この時、 こがし湯を入れて持ち出すのにも湯桶が転用されている。
いずれにしろ、湯桶は本来そば湯専用の容器ではなかったわけで、問題はいつ頃からそば屋で転用されるようになったかである。
ところで、江戸時代までの湯桶は曲げ物、 つまり丸型で、角湯桶が登場したのは明治になってからともいわれるが、以後、この角形が湯桶の代表的な形になった。
この角湯桶はよく知られるように、口が正面についてなく、横のほうに突き出た格好になっている。そこから、人が話をしている最中に横から口出しすることを「そば屋の湯桶」と呼ぶようになったという。
したがって、この諺が広まり出したのは、 角湯桶が普及した明治以降のことということになる。
ちなみに、湯桶を「ゆとう」と読む類いを俗に「湯桶読み」という。漢字2字でできている熟語の上の字を訓で読み、下の字を音で読むことである。ふつう熟語は音読み、ないしは訓読みだけで統一して読むも のだが、湯桶の場合は「とうとう」とも「ゆおけ」とも読まない。反対に、上を訓読み、下を音読みする場合は「重箱読み」 という。