そばの散歩道

麺類雑学事典

手打ちそば

いま「手打ちそば」といえば、機械で製麺したそばに対する言葉として、だれも疑わないだろう。ところが、製麺機のなかった江戸時代にも、「手打ち」あるいは「手打ちそば」と銘打って商売するそば屋があった。

この「手打ち」という言葉が、ほかのそば屋との差別化の意味で使われるようになったのがいつからなのかは定かでないようだ。しかし、天明7年(1787)に刊行された江戸買物案内書『七十五日』には、「手打ち」を名乗るそば屋がずらりと紹介されている。収録された50数店のそば屋のうち約半数が「手打ち」ないしは「手打生蕎麦」を名目として掲げている。

天明期といえばすでに、そば屋が江戸市中を席巻しつつあった時代である。そば屋間の競争もいっそう激しさを増していたと考えられる。

ところで、江戸時代のそばの名著として知られる『蕎麦全書』が書かれたのが寛延4年(1751)。同書によれば、当時はまだ、そばを商っていても「うどん屋」と呼ばれる店がけっこうあったことがわかるが、同時に、そばの人気が高まるにつれ、そばの品質に問題のある店が増えていると苦言も呈している。

要するに、つなぎ(小麦粉)の割合の問題で、通例は小麦粉4にそば粉1の割というが、3対1にしてそばの品質を高めたと自慢するそば屋があるのには呆れたというのである。そば屋ではなくうどん屋と呼ばれるのもそのせいだと批判的に述べているが、こうなると、そば粉8に対して小麦粉2という二八そばの語源(一説)すら怪しくなってくる。

ただし、著者の日新舎友蕎子はことのほかそばの品質に厳格で、手ずから上等のそば粉のみでそばを打っていたというから、この批判は厳しすぎる嫌いもあるかもしれない。

いずれにしろ、いわゆる二八そばが1杯16文を表示していたらしい寛延から宝暦にかけての頃(1748~64)はまだしも、その後、二八そばは「駄そば」の代名詞のようになってしまったとされる。
そうしたそば屋の風潮の中で登場したのが、「手打ち」という言葉であった。もちろん、製麺機など想像もできない時代のことで、そばに限らず麺類は手で打つに決まっている。それでもあえて「手打ち」としたのは、「二八そば屋」に対する差別化の意思表示以外の何ものでもないだろう。

また、「生蕎麦」というのは文字通り、つなぎに小麦粉を使用していないという意味で、友蕎子にいわせれば、これこそがそばの本筋ということになる。

さらに宝暦頃からは、夜そば売りも従来の夜鷹蕎麦だけでなく、清潔感と種もの(しっぽく)で売った風鈴蕎麦も登場している。

しかし、幕末頃には二八そば屋も手打ちや生蕎麦を名乗り、風鈴蕎麦も夜鷹蕎麦と見分けがつかなくなってしまったそうである。