麺類雑学事典
鍋焼きうどん
冬季に喜ばれる麺類といえば、鍋焼きうどんが挙げられる。
現在では、ざるうどんなどの冷たい品書きが人気になっているが、うどんはもともと冬場に温めて食べるものだったようである。元禄10年(1697)刊の『本朝食鑑』には、うどんは寒い時節のもので、ひやむぎは暑い時節によいとしたうえで、寒温の区別なく食べる人もいると書かれている。この時代すでに、うどんとひやむぎの季節による食べ分けが定着していたわけだ。
天保・嘉永期(1830~1854年)の江戸風俗の記録『守貞謾稿』の著者・喜田川守貞は大坂に生まれ、30歳の時に江戸に出た人である。そのせいか、当時の上方のうどんの品書きも紹介しているが、うどんは温かいかけが基本だったようだ。江戸のそば屋で出していたうどんも「あんかけ」である。
また、いずれの場合も季節については触れていないから、うどんといえば年中を通して、温かいものと決まっていたと考えられる。ただし、この時代の文献にはまだ、鍋焼きうどんという品書きは出てこないという。
鍋焼きうどんの記録の初出とされるのは、明治維新の3年前の元治2年(1865)初演の芝居の台詞である。江戸三座の一つとして知られた市村座で掛かった『粋菩提禅悟野晒(すいぼだいさとりののざらし)』という芝居で、大坂四天王寺山門前で夜鳴きうどんを商う男が、客に向かってこう語る。ついこの間までは大坂名物のえんどう豆を売っていたのだが、近頃流行の鍋焼きうどんにすっかり押されてしまい、それから商売替えをしました、と。芝居に取り上げられるということは、当時の大坂では、屋台の夜売りの鍋焼きうどんがかなりの流行になっていたことを裏づけているといえるわけだ。
では、その流行が始まったのはいつ頃かとなると、はっきりしない。しかし、『守 貞謾稿』以後から元治年間までの間の時期と推定すると、嘉永末期頃からの十数年 間のこととなる。
ただ、大変な人気を博したのは大坂でのことで、江戸ではもてはやされた形跡はな い。ようやく伝播してきたのは東京に変わった明治6、7年頃のこととされているが、 いったん登場すると、その普及は早かった。明治になってからもしばらくの間、東京で は夜そば売り(夜鷹そば)があちこちに屋台を出していたが、鍋焼きうどんが出現す るや、夜鷹そばはたちまち席巻されて姿を消してしまったという。ちなみに、東京で の流行の最初は、明治11年頃の深川という説もある。
鍋焼きうどんは小ぶりの土鍋を使った一人前用の鍋ものだが、これを洗練させ、何 人もが楽しめるようにしたのが、大阪の老舗店の「うどんすき(登録商標)」である。 一方、東京でも明治から大正にかけての時期、さる老舗そば屋が「よせ鍋」と称して うどん台の鍋ものを提供している。