麺類雑学事典
そうめん
祇園祭で知られる京都の八坂神社は、明治元年に改称されるまで祇園社といった。その南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永2年(2243)7月7日の条に、同じ食品(麺類)を指して索餅、索麺、素麺と三通りの記述があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされている。
これら三つの表記のうち、「そうめん」と読むのは索麺と素麺の二つで、索餅は「さくべい」と読む。
索餅とは、奈良時代初期から食べられていたわが国最古の麺で、和名で麦縄とも書かれた。いまのところ、天武天皇の孫・長屋王の邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が、もっとも古い記録である。もともと索餅は古代中国の後漢(25~220)や唐(618~907)の文献にたびたび出てくる言葉で、日本へは唐代に伝えられたとされている。
ただし、索餅がどんな麺だったのか、いまだに定説はない。材料・分量、道具については平安時代中期の『延喜式』に書かれており、小麦粉と米粉に塩を加えて作る麺(米粉は混ぜないという説もある)ということは分かっているが、太さや長さ、手延べか切り麺かといった詳細は不明である。
さて、中国では日本よりもはるかに早く、北宋時代(960~1127)に索麺という文字が現れる。南宋(127~1279)末期から元(1271~=268)の初め頃にできた『居家必要事類全集』という百科全書に出ている索麺の作り方の特徴は、表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くするなど、わが国の手延べそうめんの製法と酷似している。
そのため、南北朝時代に突如登場したそうめん=索麺とは、この中国の索麺が、禅僧の往来や貿易によって伝えられたものではないか、という説が有力だ。そして、索麺はそれまでの索餅と形状も名称も似ているため、言葉の混用が起きたと考えられている。
では、索麺をなぜソウメンと読んだのかだが、ソウメンは旧仮名遣いではサウメンと書くことから、サクメンが転じてサウメンになったという説や、当時の中国語の発音のソウミエンが説ったという説などがある。素麺という表記については、禅院で精進(素菜)として食べたことからの当て字ともいわれる。
江戸時代には、七夕にそうめんを供え物とする習俗が広まっているが、これは細く長いそうめんを糸に見立て裁縫の上達を祈願したもの。古く平安時代には、七夕に索餅を食べるとおこりの病(マラリア性の熱病)にかからないという中国の故事にならい、宮廷での七夕行事に索餅が取り入れられている。ちなみに、室町時代の宮廷の女房詞では、そうめんを「ぞろ」といった。
室町時代は、茄でて洗ってから蒸して温める食べ方が多く、蒸麦や熱蒸とも呼ばれた。またこの時代には「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されている。