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読んだそばから…


第6回 池波正太郎 『おれの足音』より“討ち入り”


イラスト

歌舞伎や映画でおなじみの『忠臣蔵』。そのクライマックスである討ち入りのとき、そば屋に集合したというのは、ほとんどの日本人が知っている=Bだが、事実はちがうようだ。

史実と考えられる浪士たちの集合場所は、本所林町五丁目の堀部安兵衛宅など同志の家三ヵ所であった。 浪士たちは討ち入りの集合前に、両国矢ノ倉米沢町にあった堀部弥兵衛宅で供応を受けたが、その後、吉田忠左衛門ら六〜七人は、まだ時間が早いと、両国橋向川岸町の茶屋・亀田屋に寄り、そば切りを食べた。

この話が、のちに「そば屋集合説」に変化していったのかもしれない。 徳川幕府の創設と時期を同じくして登場した『そば屋』は、江戸の発展とともに成長する。そのようすを池波正太郎は、大石内蔵助の人間像を描いたこの作品で次のように描写している。

『江戸では、いま、蕎麦屋が大流行している。そのほかのいろいろな食べものやが出来るのは、もっと後年になってからのことで、元禄十五年のこの時点では、蕎麦屋と茶漬屋が、市民たちの外食にこたえていた。…(中略)… 内蔵助が、まだ家老になったばかりのころ、江戸へ来てそば(そばボウ点)を食べたときは、ふとく打った黒いそば(そばボウ点)を箸でちぎるようにして口へはこび、たんねんに噛みしめたものである。また蕎麦屋の数も少なくなかった。

ところがいまは、江戸市内のどこへ行っても蕎麦屋はあるし、……』 「討ち入りそば」がはじめて登場したのは昭和に入ってから。昭和二年の大恐慌の余波を受けて売上が減退した東京・日本橋のそば店が考えだした宣伝だったという。冬が旬のうなぎを夏(土用の丑の日)と結びつけたのと似ているが、土用のうなぎと同じく年中行事のひとつとして、年末の風物詩となっている。

 

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