《連載》虎視眈々 片山虎之助の眼

日本麺類業団体連合会が発行する冊子『麺』の随筆です。

老舗のエッセンスを現代の好みにアレンジ


第七十回 片山虎之介

主人の田中信弘さんは、会社勤めを6年したあと退職し、都内の老舗蕎麦店で3年の修行を積み、自分の店を開いた。いわゆる脱サラの蕎麦店である。

千葉県の東金市は、人口約6万人。首都圏より50qほどの距離にあるが、昨今の事例に漏れず、大型店が出店して商店街がその影響を受けている町だ。その繁華街から1qほどの距離、自然公園の緑に囲まれた環境に、『無策房 逸香』がある。あまり聞かない屋号について、田中さんは次のように説明する。

「私は、これと目標を決めたら、徹底的にやらないと気がすまない質(たち)なのですが、その過程で、あまり深刻に考えないのです。それで無策房と名付けました。逸香とは、いろいろ思い入れはあるのですが、優れた香りという意味です」

創業したのは15年前。駅前のテナントビルの中で始めたのだが、今から4ヶ月前に、市街地から離れた現在の場所に移転した。それまでひいきにしてくれていた常連客の多くは、ほとんどそのまま新しい店に来てくれるという。

駅前のビルから、車でなければ行きにくい場所に移転したのに、なぜ客が離れないのかと不思議に思ったのだが、『無策房逸香』の蕎麦を味わってみて納得がいった。おいしいのだ。これなら少々行きにくい場所にあっても、再訪したくなる。

店の顔となるのは「粗挽き田舎せいろ」だろう。石臼を使って自家製粉した蕎麦粉を使っている。

殻の付いた玄蕎麦のまま石臼で挽いたという「粗挽き田舎せいろ」は、色が黒くて、太めに打ってある。しかし、食べると意外にさっぱりしていて、田舎蕎麦の特徴とされているエグミは、あまり感じない。それでいて、しっかりした蕎麦の風味を備えている。お替わりをしても食べ飽きない蕎麦だと言えるだろう。

店のもうひとつの柱となる「せいろ」も、ヌキから製粉したという色の濃いめの蕎麦だが、「粗挽き田舎せいろ」よりも細く仕上げてあり、こちらもとても食べやすい。

蕎麦の食味で、最も大きな特徴は食感だろう。 冷たい氷でキリッと締めた「コシがあって角が立った蕎麦」というのとは、ちょっと違う。この店の蕎麦は優しい食感で、癖がなく、とても食べやすいのだ。特に蕎麦好きというわけでもない一般の客や子供にも、「おいしいね」と喜ばれる味に仕上がっている。

その理由は、田中さんが修行した店にあった。

修行先は、都内の手打ち蕎麦の老舗として知られる名店だが、この店の蕎麦が、やはり癖がなく、食べやすい味なのだ。蕎麦の打ち方からして、伝統を大切にしているため、流行の蕎麦店とは違っている。時流に流されず、店の味をしっかり守っている名店の味を、田中さんは大切に受け継ぎ、自分の店の基礎に据えている。そこに自分ならではのアレンジを加え、『無策房 逸香』の個性を作り出しているのだ。

同店の人気の一品、「塩鴨せいろ」は、「鴨せいろ」とは違うメニューだ。醤油ではなく、塩で味付けした鴨肉を使った蕎麦だが、これも魅力だ。

醤油の主張がないので、鴨肉の甘さ、持ち味が生きていて、ここにしかない味になっている。

修行先の老舗のエッセンスを土台にして、現代の好みにあった味を工夫した『無策房 逸香』の蕎麦は、古くて新しい、日本蕎麦の新境地を切り開いた蕎麦だと言えるだろう。


無策房 逸香
千葉県東金市松之郷2420─3
電話 0475─55─8021

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