《連載》虎視眈々 片山虎之助の眼

日本麺類業団体連合会が発行する冊子『麺』の随筆です。

無名の蕎麦屋に、隠れた名店あり

第一回 片山虎之介

飲み食い話の玉手箱

今は名店と呼ばれ、日本全国にその名を知られた新潟県妙高市の『こそば亭』だが、数年前、僕が初めてこの店を訪ねたときは、まだマスコミには載ったこともない、いわゆる「田舎の無名の蕎麦屋」だった。昼の2時間だけ開くこの店には、地元の顔見知りや、ルートセールスの営業の人などが立ち寄る以外は客もなく、いつも同じ顔ぶれが家族のように談笑しながら蕎麦を食べていた。

僕が『こそば亭』を知ったきっかけは、同店主人の市村伊佐夫さんがくれた一通の手紙だった。僕の著書『真打ち登場!霧下蕎麦』を読んだ市村さんが、「霧下蕎麦が一番という、この本の内容には、納得がいきません。私は霧下蕎麦の産地のすぐ近くでソバを栽培し、蕎麦屋を営んでいますが、私の店の蕎麦は霧下蕎麦より美味しいです。霧下蕎麦を栽培している農家も、それを認めています」と、編集部宛に手紙をくれた。その手紙に僕は、返事を書いた。「この本は、霧下蕎麦というブランドがどういうものかを解説したもので、その蕎麦が一番旨いという話ではありません」

再び、市村さんから手紙がきた。「まさか片山さん本人から返事をいただけるとは思わず、失礼しました。私は妙高市で在来種のソバこそば≠栽培して、店で供しています。畑は火山灰土ではなく、赤土有機土壌。とても美味しいので、ついでのに、ぜひお立ち寄りください」

僕は、「在来種」と「赤土有機土壌」の言葉にひかれ、すぐに高速道路を走って、妙高市を訪ねた。

『こそば亭』の蕎麦を一口食べた瞬間、自分自身の中にある「蕎麦とはこういうもの」という概念が、木っ端みじんに粉砕されるのがわかった。強烈な香り、濃厚な味。そして独特の強いコシ。今まで日本全国津々浦々、様々な名店、あるいは無名店の味をみてきたが、こういう蕎麦は初めてだった。
「すごい蕎麦ですね」と驚く僕に、市村さんは言った。
「来年からこのこそば≠栽培するのはやめて、収量の多い有名ブランドの品種に切り替えようと思っているんです。地元の農家も、みんなそうすることになっています」

飲み食い話の玉手箱

僕は反対した。「地元に、こんなに素晴らしい宝物があるのに、なぜ他品種を作るんですか。考え方を変えて、絶対、このソバを大切にしてください」

他品種を同じ地域で栽培したら、昆虫が媒介して受粉するソバは交雑して、こそばは永遠に失われてしまう。話し合った結果、市村さんは、他品種の導入を思いとどまり、こそばを作り続けることにしてくれた。

素晴らしい蕎麦があったら、それをみんなに知らせるのが、僕の仕事だ。『こそば亭』の技術の高さ、こそばの美味しさを、僕はあちこちの雑誌に書いた。今では『こそば亭』は、新しい蕎麦の時代の到来を予感させる店として、蕎麦好きの注目の的になっている。

日本中には、数えきれないほどの、蕎麦屋さん、うどん屋さんがある。その中には、地元の人しか知らない、美味しい料理を食べさせてくれる『こそば亭』のような店が、何軒もあるに違いない。次の時代を牽引する名店は、そういう無名店の中にこそあると、僕は信じている。

飲み食い話の玉手箱

これから『麺』に連載の場を設けていただけることになった。この貴重なスペースを活用して、片山が見てきた、食べてきた「素晴らしいもの」のことを、皆さんにお知らせしていきたい。その記事から蕎麦、うどんの、新しい可能性を読み取っていただけたなら、こんなうれしいことはない。

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