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第31回 
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地元大企業の専務から脱サラした大もの蕎麦屋が披露する珍芸至芸

にっぽん蕎麦紀行 写真・文/旅行作家 富永政美 space

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三条通で見た明治の京都
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昔の東海道は、江戸日本橋から京都三条大橋 まで125里20丁(502キロメートル)。途中には 53の宿場があり、普通の旅人なら14泊15日の行程だった。
浮世絵師、歌川(安藤)広重は『東海道五十三次』の最後に、雨の三条大橋を描いた。 長い道中を終えた旅人が、鴨川のほとりに立って、橋の向こうに広がる京の街並みを見るとき、疲れが一気に抜ける思いがしたという。現在の三条大橋は昭和25年に架け替えられた鉄筋の橋だが、欄干には戦国末期の銅の擬宝珠(ぎぼし)がそのまま使われている。

江戸時代、京都の東の入口として栄えた三条通は、明治になって金融の街に生まれ変わった。今も残る2つのレンガ建築が、当時の町並みをしのばせる。
ひとつは明治35年建築の「旧京都郵便電信局」で、今も現役の「中京(なかぎょう)郵便局」として使われている。
もうひとつは明治35年に完成した「旧日本銀行京都支店」で、現在は「京都文化博物館」の別館として一般に公開されている。

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現在の三条大橋(昭和25年改築)
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現在の三条大橋(昭和25年改築)
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今も現役の明治時代の郵便局(中京局)
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今も現役の明治時代の郵便局
(中京局)

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明治に開かれた新歓楽街
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京都市街を東西に貫く「四条」「五条」の2つの通は、今は広い幹線道路となっているが、 その北の「三条通」は昔のままの道幅で、京人形・京扇・足袋などの老舗(しにせ)が奥ゆかしく残っている。

三条通から直角に南へ分かれ、四条通とつなぐ約600メートルの新京極(しんきょうごく)通は、明治5年、首都の座を失った京都の疲弊を恐れた当時の知事が、寺社の境内を削って開いた歓楽街で、現在も京都きっての盛り場となっている。

新京極通と三条通の丁字路正面に、『本家田毎』(ほんけたごと)という蕎麦屋がある。古風な格子戸に「創業明治元年」の白木の看板。気取りなく凝った落ち着いた構えだ。
この店の主人は京都府麺類組合の理事長を務め、多方面で活躍する文化人と聞いた。「お
話を伺いたい」と電話すると、快く時間を割
いてくれた。

笑顔で迎えてくれた堀部勝也氏は、色白の上品な紳士。お年は50を過ぎたばかりかなと思ったが、「昨年、還暦を迎えましてね」とおっしゃる。
まずは、お店の歴史から聞いた。

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三条通の交差点標識
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三条通の交差点標識
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京都の繁華街、新京極通
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京都の繁華街、新京極通
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老舗の構え(京都三条『本家田毎』)
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老舗の構え(京都三条『本家田毎』)
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財閥の番頭が蕎麦屋に転身
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幕末の京都に「湯浅」という財閥があった。一介の炭屋から店を起こし、金物問屋として財をなした豪商。電池で知られる「ユアサ」の前身である。
その番頭を勤めあげた堀部徳兵衛が、定年退職したのは、あと数年で明治…という頃。定年と言っても昔のこと。まだ40台だった。呉服屋を開いたが、大店(おおだな)と小店の商法は別。見事に失敗した。

義弟が寿司屋をやっていた。その手引きを受け、今の場所で蕎麦屋を始めた年に、年号が明治と変わった。屋号を『田毎』としたのは、蕎麦の産地、信州で見た「田毎の月」の美しさが忘れられなかったからだ。4年後に新京極通が開かれ、絶好の地の利を得た『田毎』は繁盛した。

妻のはなとの間には子がなく、もと武士の家から良雄を養子に迎えた。それが当主、勝也氏の祖父である。次男として、もう一人の養子を迎えた。その後まもなく、徳兵衛は病死した。

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