そばの散歩道にっぽん蕎麦紀行メニューへ次ページへトップページへ
にっぽん蕎麦紀行
 


第9回 東京都・他『長寿庵』

『長寿庵』300年の歴史・東京を中心に340軒の『長寿庵』日本最大の蕎麦屋のれん会の秘密に迫る



◎『長寿庵』の元祖


元禄15年(1702)…、といえば、赤穂浪士討ち入りの年である。
三河の国(愛知県)蒲郡(がまごおり)の片田舎から、惣七という若者が江戸の街にやってきた。

百姓の7男坊では一生ウダツが上がらないと、僅かな路銀を親からせしめ、花のお江戸で一旗あげるため、はるばる出てきたのだ。

徳川家康が幕府を開いてから99年。江戸の人口は100万を超えていた。その賑わいぶりに、惣七はただ目を見張るばかりだった。
江戸では新しく登場した"蕎麦切り"がブームを呼んでいた。淡泊な味と、ズズッとすすり込める威勢のよさは、江戸っ子の好みにぴったりだった。

もともと蕎麦切りは、東海道の茶屋で売られ、それがウマイと旅人の評判になって、江戸に入ってきたとされる。蒲郡に近い東海道の立場でも何軒かの蕎麦屋が繁盛し、お伊勢参りのピーク時など、近隣の村人が助っ人に頼まれることが多かった。
子供の頃から蕎麦打ちになじんでいた惣七は、猫の手も借りたい江戸の蕎麦屋から引っ張りダコの存在になった。

2年間、タンマリと稼いだ惣七は、江戸の娘を嫁に迎え、京橋五郎兵衛町に自分の店を出した。22歳のときである。公式には三河屋惣七と名乗ったが、屋号は『長寿庵』。当時の江戸では蕎麦屋に「庵」をつけるのが流行となっていた。

京橋五郎兵衛町は現在の東京駅八重洲口の銀座側である。江戸城の鍛冶橋門の前で、古着屋の多い商人の街として盛っていた。惣七の『長寿庵』は味がよいと評判で、数年たたぬうちに店は何倍もの大きさになっていた。



-1-
にっぽん蕎麦紀行メニューへ 蕎麦紀行メニューへ 次ページへ 次ページへ トップページへ トップページへ

お問い合わせはこちら お問い合わせはこちら
copyright(c)1998-2007(社)日本麺類業団体連合会/全国麺類生活衛生同業組合連合会