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にっぽん蕎麦紀行
 
 

第4回 福井県武生市『うるしや』
 
からーい大根おろしで食べる越前そば

 



◎越前…という国




昔むかし、北陸から新潟までの日本海沿岸を越(こし)の国といった。「こし」とは都から山を越えてゆく遠い国…の意味だった。
約1300年前の「大化の改新」のとき、「越」を3つの国に分け、朝廷に近い順で越前(福井県)、越中(富山県)、越後(新潟県)とした。(今の石川県…能登と加賀は、その後で越前から分かれた)越前の国府(今の県庁)は、武生(たけふ)に置かれた。

 



◎紫式部が住んだ町、武生


金色燦然…紫式部の像
金色燦然…紫式部の像


約1000年前の平安時代、越前守に任じられた藤原為時は、20代の娘を連れて武生に赴任した。その娘…香子(たかこ)が、のちに『源氏物語』を書いた紫式部だった。都そだちの娘にとって、当時の武生は遠くて寂しい所だった。都を懐かしむ歌ばかり詠んでいた式部は、1年半後、一人で京へ帰ってしまったのだが、いま武生市は市内に立派な「紫式部公園」を作り、黄金色の「式部像」を建立して、大文豪の徳をたたえている。

金ピカの像は、コンピューターで文献のデータを解析して、顔もお姿も式部サマそっくり作った…というが、ご本人が見たら、「アラ、私こんなに太ってなかったわよ」とおっしゃるのでは…。

 



◎江戸時代、2万石の城下町




鎌倉時代以降、武生は「国府の町」の意味で府中と呼ばれた。武生の地名が復活したのは、明治維新の後である。
江戸時代の始め、徳川家康の次男、松平秀康が68万石で越前に入り、今の福井市に城を築いた。幕府は秀康のお目付役として、本多富正を派遣した。
富正の肩書は家老だったが、福井藩68万石のうちから3万9千石を与えられ、府中城主として、大名並の待遇を受けた。
のち、福井藩ではごたごたが起き、68万石を半分に削られたため、府中も2万石に減らされたが、幕末まで平和な城下町として栄えた。

 
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