そばの散歩道にっぽん蕎麦紀行メニューへ次ページへトップページへ
にっぽん蕎麦紀行
 
 

第3回 秋田県羽後町『弥助そば』
 
豪雪の中でも「冷たいかけそば」しか食べないニシモナイの不思議

 



◎話題豊富なニシモナイ


「西馬音内盆踊り」の像(西馬音内御陣屋広場)
「西馬音内盆踊り」の像
(西馬音内御陣屋広場)


ニシモナイは西馬音内と書く。東モナイはない。西馬音内の語源がアイヌ語で、「ニシ …断崖」「モ…小さな」「ナイ…流れ」だからだ。
戦国時代、地元の武将、小野寺氏がここに城を築き、城下町を開いたが、山形の最上氏に滅ぼされ、悲憤の最期を遂げたと伝えられる。江戸時代には西馬音内街道の宿場町。月3回の市(いち)には海陸の物産が集まり、商業の町としても栄えた。








羽後町の観光看板
羽後町の観光看板

「西馬音内盆踊り」は、「編笠姿の農村娘」と、「黒覆面の幽霊」が共演する不思議な踊り。豊作の喜びと、滅亡した小野田氏の怨念を込めたものといわれ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。毎年8月16日から3日間の開催。町の広場には等身大の「踊りの像」が立ち、その情景をしのぶことができる。


 

二万石橋の向こうが『弥助そば』
二万石橋の向こうが『弥助そば』


町の中央、西馬音内川にかかる橋は「二万石橋」。昔、二万石の2つの藩の殿様がここを通って江戸へ上ったところから、その名が生まれたという。 ここは江戸時代の大学者、佐藤信淵(のぶひろ)の生地。その感化で羽後町は教育熱心な町として有名だ。「羽後町歴史民俗資料館」が立派なのに感心する。昔は独立の西馬音内町だったが、昭和30年の町村合併で羽後(うご)町西馬音内となった

 



◎風来坊が始めた名物そば




190年ほど前の文化年間、西馬音内に弥助という少年がいた。百姓家の7男坊。 リコウなのか、バカなのか…、とにかく変わっていた。放浪癖があって、フラッと家を出ると、10日や20日は帰ってこない。10歳を過ぎたころ、例によって家を出たきり、1年たっても2年たっても帰らない。親はあきらめて、葬式を出し、10年がたったある日。弥助は出たときと同じに、フラッと帰ってきた。見違えるような若者になって。「大阪の砂場で、そば打ちの修業をしてきた」と弥助は言い、二万石橋のたもとに『弥助そば』を開いた。

文政元年(1818)のことである。(大阪の砂場については別項を参照)東北では見たこともない、白くて細いそば。つなぎにはフノリを使う。熱いそばは作らず、冷たいかけだけ。それが街道を行き交う旅人や、市(いち)に集まる商人たちの人気を呼び、「冷やかけ」が西馬音内のそばとして定着した。



-1-
にっぽん蕎麦紀行メニューへ 蕎麦紀行メニューへ 次ページへ 次ページへ トップページへ トップページへ

お問い合わせはこちら お問い合わせはこちら
copyright(c)1998-2007(社)日本麺類業団体連合会/全国麺類生活衛生同業組合連合会