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臼挽職(うすひきしょく)
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昔は玄蕎麦の製粉には、主として石臼が用いられていたが、回転式の石臼が農家などを中心に普及したのは比較的新しく、江戸時代の中期以降のことといわれている。「臼挽職」とは、手で使う直径一尺八寸(約五〇センチ強)ほどの「磨り臼」を車などに取り付けて、麺類店を定期的に回って、粉挽きを行う職業であり、「挽屋」とも呼ばれた。一般に江戸のころの麺類店では、荻窪、高井戸、小金井などの江戸西北部周辺を産地とする玄蕎麦に依存し、これを中野や練馬方面にあった「殻屋」が買い取って脱穀加工し、江戸市中に供給していた。当時の麺類店では、こうして加工された「抜蕎麦」を仕入れ、挽屋(臼屋ともいう)が製粉して、最適の蕎麦粉をつくり、それぞれの店でお客に供したのである。こうした抜蕎麦から製粉する場合、だいたい一人一日一俵(四斗五升、約八一リットル)ほどを標準として製粉し、一升五合(約三リットル)ほどの末粉を残したのであるが、店によっては、「万年びき」といって、末粉をとり除かず、そのまま循環的に製粉する場合もあった。

時代が下がって、明治二八、九年ごろになると、人力による石臼製粉に代わって、石油ガスエンジン使用の機械製粉機が使われだしたという。ちなみに明治の中期のころまでは、麺類の生産地付近の農村では、「水車製粉」が盛んであり、板橋や牛込などでは水車小屋で麺用の小麦のほとんどを挽砕していたという。

●参考文献『蕎麦辞典』『蕎麦考』
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